私の師匠「勝亦正人さんへの最後のあいさつ」

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日(火)、25日(水)は、私の後援会長である勝亦正人さんの通夜、告別式がしめやかに営まれた。

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 式場にはそれぞれ600人、300人以上の方が勝亦さんに最後のお別れに訪れたが、駐車場が足りず、残念だが式に参列できなかった方が更に多くいらっしゃったようだ。

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 私は、弔辞を読ませていただいた。

 今日は、私の師匠である勝亦正人さんのことを、ブログをご覧の皆さんにも、ご記憶いただければと思います。


 勝亦正人様。

 勝亦さんを知る駿河台の、今泉の、そして富士市各地の多くの皆さんが「何でだよ」と打ちひしがれ、悲しんでいます。

 私が勝亦さんに初めてお会いしたのは、私が吉原から今泉の駿河台三丁目に引越し、勝亦さんのお宅と畑1枚を挟んだ南側に自宅を新築した平成6年でした。

 しかしその当時、私はサラリーマンの仕事と、環境系のNPOの活動で忙しくしており、勝亦さんがどんな方なのかよくわかりませんでした。

 それでも勝亦さんを中心としてさまざまな行事等をリードして活動する町内有志の会「翔成会」に入会し、一杯やったり、勝亦さんの4回目、5回目の選挙を手伝ううちに、「この人はただものではない」との思いを強く持つようになりました。

 ある時、町内の誰かが知り合いの人が亡くなった話をしていて「55歳で脳梗塞じゃあ若すぎるよなあ」と言ったら、勝亦さんが「俺は、18歳で農高卒だけんね。18歳で農高卒」。これには大爆笑でしたが、一同、勝亦さんの頭の回転の良さ、出口の良さに驚くばかりでした。

 また選挙カーで夜の吉原の裏通りを通ると、いろいろな店から出勤したばかりのきれいなお姉さんたちが飛び出してきて、「勝亦さ~ん、頑張って~」と競うように声をかけてくれるのにも驚きました。

 そして吉原に飲みに行くと、「俺は勝っちゃんと飲んで、楽しい話をしたいから」と言って街に出てくる方が何人もいることも驚きでした。

 勝亦さんの話は、縦も、横も、奥行きも、本当に幅が広く、楽しく、私が言ったらセクハラで確実にアウトになりそうな話でも、勝亦さんが言うと、いやらしさがなく、座が盛り上がるばかりでした。

 「この人は巷で言われるような『女ったらし』じゃなく『人たらし』だ」と実感しました。

 私に「俺の後継者として市議会議員に挑戦してみないか?」と声をかけていただいたのが勝亦さんでした。

 私の最初の選挙の時は、勝亦さんはまだ現職の市議会議員だったので、表向きは「後援会顧問」という立場でしたが、実際には選対本部長として、選挙の戦い方を一から教えていただきました。

 「親戚会や同級生会、地元の駿河台会など、とにかく後援会の支部をたくさん作って、支部の間で競争させて後援会の加入者を15,000人集めること。そして小池、お前は後援会に入ってもらったお宅を少なくても3000軒は戸別訪問で回ること。」

 これが選対本部長・勝亦さんの指示でした。

 私は選挙前年の秋から、とにかく毎日毎日戸別訪問を続け、2月いっぱいまでに何とか3000軒を回り、勝亦さんに報告しました。

 すると勝亦さんは「じゃあ後1000軒、合計4000軒が目標だ」と手綱を緩めてくれません。

 結局4000軒は回れませんでしたが、初めての選挙は3000票を超える得票で当選することができました。

 開票の夜、勝亦さんが言った言葉が忘れられません。

 「俺は小池が『3000軒回りました』って言った時に、『これは勝った』って思っただよ。後はおまけだよ」

 勝亦さん、その後のどの選挙も私は勝亦さんに言われた「3000軒の戸別訪問」が基本だと思いやってきました。間違いなかったです。

 私が市議会議員になるのと入替えに勝亦さんは勇退され、今度は正式に私の後援会長になっていただきました。

 その頃、「俺は毎日酒ばっかり飲んで、遊んでいるように言われてる。それはホントだけんな、俺が市議会議員になろうと思ったのは、市の職員として30年も議会を見てきて、少なくともこの3つを何とかしなきゃと思ったからさ」と話されたことがあります。

 1つ目は、「決算委員会を作ること」。富士市は工業都市で裕福だから予算を組んだら、どう使おうが誰も気にしないけど、本当にそれでいいのか?予算が有効に使われたかどうか、しっかりチェックするのが議会で、それには決算委員会が絶対必要だ。

 2つ目は、さまざまな団体に支出している「補助金の審査をしっかりすること」。同じ団体に同じ金額の補助金が毎年支出され、それが既得権益になっている。それを指摘し、チェックするのが議会のはずだ。

 3つ目が、「議長は少なくとも2年制にすること」。勉強もしないで能力がなくても、1年交代で順番で議長になれるなんて、企業じゃあ考えられない。ダメな議員はダメ。能力がある議員が少なくとも2年続けてやらないと市長に対するチェック機能が働かない。

 この3つは、勝亦さんや、当時市議会議員だった小長井市長等が、苦労されながら改革されてきましたが、これからも議員・議会が真剣に取り組まなくてはならないテーマです。

 周りからのさまざまな雑音は気にせず、議員になる当初からその3つを目標とし、訴え、行動されてきた勝亦さんの姿勢には、頭が下がるばかりです。

 私の議会での一般質問は、事前に勝亦さんに質問通告書を見ていただき、当日も傍聴に来ていただく。それがつい最近までの私のスタイルでした。

 1期目の頃は、よく先輩議員から「勝亦さんは、いつも小池の父兄参観だな」と言われましたが、私は「後継者の議員を作り、その後援会長になり、毎回傍聴に来てくれるような議員経験者は勝亦さん以外にはいない」と思っていました。

 勝亦さんのアドバイスは、いつもただ一つでした。

 「市長が先を見て、本気で考えなきゃならない提案をしろよ。今困っている、話題になっているような問題は、行政マンだったら誰だって対策を考えている。そんな『終わっている話』は質問するなよ」でした。

 身体が大変になる前、昨年の9月議会までの毎回のアドバイスと傍聴、本当にありがとうございました。

 勝亦さんは、私を含め、よく同じ町内、駿河台三丁目の気の合うメンバーを誘っては、吉原の街に繰り出したり、ご自宅に招いていただき、奥様の千恵子さんも一緒にお付き合いいただき、本当に遅くまでお邪魔させてもらいました。

 そんな時、「なぜそんなに、勝亦さんはみんなに気を使って楽しませてくれるんですか?俺だったら疲れ切っちゃって、とてもできないです」と聞いたことがあります。

 すると「俺は小さい時に両親を亡くし、兄弟がバラバラになり、親戚の家に預かってもらい育ってきた。子ども心に『養ってくれるおじさん、おばさんを楽しくさせなきゃ、食べさせてもらえないかも、生かしてもらえないかも』って心配してただよな。だからそれが癖って言うだか、人生観になって、この年齢になっても、誰にでも楽しんでもらわなきゃ、自分の存在意義がないって思っているだよ」。

 少し悲しい始まりですが、それが敵も作るけど、その何倍もの多くの人に愛される勝亦さんの魅力であり、人間性だと思います。

 まさに座右の銘とされた「刻石流水(こくせきりゅうすい)…かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」そのものでした。

 私は20年余の年月でしたが、勝亦さんとの思い出、受けた恩と教えは限りがありません。

 それを少しでも引き継いでいくのが私の役割だと思っています。

 本当にありがとうございました。

 勝亦さん亡き駿河台三丁目、吉原の街、そして勝亦さんを知る多くの皆さんの心に、ぽっかりと大きな穴が空いたようです。

 勝亦さんが元気な頃によく言っていた「俺の葬式は、一杯やりながら、元気よく、ジャンジャン音楽をかけて楽しくやってくれ」なんてのは、やはり無理です。

 今日は、しっかり勝亦さんとの思い出を、胸に刻みながらお送りしなければと思います。

 でも葬儀が終わり、コロナウイルスが一段落したら、「勝亦正人をしのぶ会」を必ず開き、音楽を流し、勝亦さんと一緒に、みんなでワイワイ楽しみたいと思います。

 それまで、しばしのお別れです。

 さようなら。

        令和2325日   富士市議会議員 小池智明


by koike473 | 2020-03-26 08:01 | Trackback | Comments(0)  

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