「焼き場に立つ少年」 改めて8月15日に誓ったこと
2012年 08月 16日

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皆様、お盆はどのようにお過ごしですか。
私は、今月初旬に参加した視察や研修の報告書をまとめたり、さまざまな資料の整理をしています。
ブログも3日ぶりです。
休みボケか、デジカメを忘れたのでケータイです。
昨日は8月15日。終戦記念日だ。
富士市主催の「戦没者追悼式」が開かれ、同じロゼシアターの1階では「第25回 平和のための富士戦争展」が開催されていた。

「戦場に散った富士市の兵士たち」、「富士市に飛行場があったことを知っていますか」、「北の大地で若者たちが見たもの ~満州開拓とシベリア抑留」、「私たちが沖縄から問われていること ~沖縄戦と米軍基地」、「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニそしてフクシマ・・・浜岡は?」、「伊藤和也写真展 ~アフガニスタンの大地と子どもたち」等、どのコーナーも重いテーマの写真や資料が並んでいる。

サクラの木で造った木製プロペラ。戦争末期には、金属が不足し、実際にこんなプロペラで飛んでいたそうだ。

竹やり。米軍が上陸してきたら、これで交戦するよう指導されていた。上層部は本当に戦えると思っていたのか?

そしてその前で足が止まったのがこの写真。

原爆投下直後の長崎でアメリカの報道カメラマン、ジョー・オダネル氏が撮影した写真だそうだ。
彼は後にインタビューでこう答えたそうだ。
「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。」
何とも切ない話だ。
「焼き場に立つ少年」でググると、多くの人のいろいろなコメントが書かれています。
一般市民が巻き込まれる「戦争」のおろかさを強く感じるとともに、「戦争」は絶対起こしてはならないと改めて誓いました。
by koike473 | 2012-08-16 07:55 | 季節・四季・日常 | Trackback | Comments(0)